白虎隊TOP ⇒ 後篇 時代背景


◆幕末維新期の東日本 ※随時更新


▼ 慶応4(明治元) (1868年) 閏年
◆ 1月 ◆ 2月 ◆ 3月 ◆ 4月 ◆ 閏4月
・鳥羽伏見の戦い
・徳川慶喜追討令発令
・東征大総督府設置
・新政府軍京都進発
・奥羽鎮撫総督仙台入り
・甲州勝沼の戦い
・江戸無血開城
・宇都宮の戦い
・清川口の戦い
・日光口開戦
・白河口開戦
・北越戦争勃発
◆ 5月 ◆ 6月 ◆ 7月 ◆ 8月 ◆ 9月
・奥羽越列藩同盟結成
・上野戦争
・箱根戦争
・輪王寺宮奥州入り
・磐城の戦い
・江戸が東京に改称
・二本松の戦い
・新潟港陥落
・長岡藩降伏
・母成峠の戦い
・仙台・米沢藩降伏
・会津藩降伏開城
・庄内藩降伏



鎮撫使
奈良時代に設置された律令体制外の官職(令外官)の1つ
731年、山陽道・山陰道・南海道(四国)の諸道に置かれ、地方の凶徒・盗賊を捕らえ、
治安維持や地方官の治績の監視にもあたった。746年廃止。
1868年に明治政府が同名の官を東海・東山・北陸・山陰・九州に置いた。
◆ 奥羽鎮撫総督
総督 沢為量(公卿)
副総督 醍醐忠敬(公卿)
参謀 品川弥二郎(長州)

(2月19日付発表時)
総督 九条道孝(公卿)
副総督 沢為量(公卿)
参謀 醍醐忠敬(公卿)
品川弥二郎(長州) 世良修蔵(長州)
黒田清隆(薩摩) 大山格之助(薩摩)
(3月1日付最終発表時)
京都(明治)新政府による出張機関。文字通り奥羽諸藩の朝廷帰順を目的としており、細微事項は独自の決裁が可能。奥羽鎮撫総督(以下鎮撫使)はまず、薩長兵約400名を従えて3月23日海路仙台へ入り、東北諸藩に会津・庄内征討の号令を掛け、4月14日「沢為量」副総督を主将として陸路西進。上山・天童を経て新庄を拠点に、地元兵力で「討庄軍」を編成したが不調に終わったため5月1日秋田領内へと転陣。しばらく大館に孤立滞在した。

一方、東北諸藩同盟の動きにより機動力・指導力共に奪われた仙台の鎮撫使本営は、新たに西国諸藩兵約1,000名を増援に迎え、5月18日に仙台を出発。盛岡へ入り、角館・刈和野・戸島を経て7月1日、秋田久保田城へ到着。先発した沢副総督の別働隊と合流し、以後新政府に帰順した久保田藩を拠点として同盟軍と交戦した。
会庄同盟
戊辰戦争期、「会津藩」と「庄内藩」との間に結ばれた同盟
1868年、朝敵とされた会津・庄内両藩は秘密裏に接近。4月10日、密約同盟を締結した。
「会庄仙米同盟」を狙っており、東北諸藩の同盟後、江戸城に兵を繰り出して軍議本営とし、奥羽連合軍による新政府軍迎撃の提案をしたが、11日、江戸は無血開城した。
白石列藩会議
1868(慶応4)年4月、仙台藩領白石城において開かれた奥羽列藩会議
【鳥羽・伏見の戦い】に勝利した薩摩・長州主導の新政府は、東北諸藩に会津征討を命じたが、征討理由に不義を感じた仙台・米沢両藩が会津藩との接触を保ち、謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。
こうした動きの中、仙台・米沢主導による奥羽会議が招集され、東北14藩が仙台藩領白石城において会議を開き、会津・庄内両藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出したが、却下された。これにより仙台・米沢両藩は配備した征討軍を解散、新政府を批判した。
----------------------------------------------------------------------------------
奥羽鎮撫総督では嘆願が通らないと判断した仙台・米沢両藩は、直接太政官(新政府)に建白書を提出するとし、諸藩に一致団結を要請。
22日、東北14藩による白石盟約書が調印された。

▼ 白石盟約書 五か条草案
一、 強を恃、弱を凌、或は他の危急を傍観する者には、列藩を挙て譴責を加える。
一、 私に営利を構、機密を漏し、同盟を離間する者には、譴責を加える。
一、 妄に人馬を労し、細民の艱苦を顧みざる者には、譴責を加える。
一、 大事件は列藩衆議を尽し、公平の旨に帰すべし。軍事の機会、細微の節目等は、集議及ばず、大国の号令に随うべき事。
一、 無辜を殺戮し、金穀を掠奪するなど、名分を侵す者は、速に厳刑に処すべし。

◆ 白石列藩同盟参加藩
仙台藩 米沢藩 二本松藩 湯長谷藩 棚倉藩 亀田藩 中村藩
山形藩 福島藩 上ノ山藩 一ノ関藩 矢島藩 盛岡藩 三春藩

奥羽越列藩同盟
1868(慶応4)年5月、戊辰戦争に際して、東北・北越諸藩の間で結ばれた反政府軍事同盟
仙台・米沢など東北の大藩が中心となり、「徳川慶喜」の寛大な処分と会津・庄内両藩の赦免を新政府に求めて拒否された東北諸藩は、5月3日に白石盟約を基盤とした【奥羽列藩同盟】を結成。5日には北越6藩を加えた奥羽越31藩による軍事同盟が締結され、西南諸藩主導の新政府に抵抗した。
6月には同盟盟主に「輪王寺宮」を迎えて軍事同盟を超える動きも見せたが、統一行動が取れずに自壊。最後は関東を平定し、戦力の逐次投入を可能とした新政府軍の前に、仙台・米沢両藩が降伏したことで事実上崩壊した。

▼ 奥羽列藩盟約書 八か条草案
一、 大義を天下に述ぶるを以て目的とす。小節細行に拘泥すべからざる事。
一、 同舟海を渉るごとく、信を以て居し、義を以て動くべき事。
一、 もし不慮危急の事あらば、近隣各藩は速やかに救援、総督府に報告すべき事。
一、 強を負うて弱きを凌ぐなかれ。私を計りて利を営むなかれ。機事を漏洩するなかれ。同盟を離間するなかれ。
一、 城堡の築造、糧食の運搬は已むを得ずと云えども、漫りに百姓をして労役し愁苦に耐えざらしむるなかれ。
一、 大事件は列藩集議し、公平の旨に帰すべし。細微は即ち其の宜きに随うべき事。
一、 他国に通謀、或いは隣境への出兵は、皆同盟に報ずべき事。
一、 無辜を殺戮するなかれ。金穀を掠奪するなかれ。凡そ事不義に渉らば、厳刑を加うべき事。
条々違背あらば、即ち列藩集議し、厳譴加うべき者也。

◆ 奥羽越列藩同盟参加藩
奥州
仙台藩 一ノ関藩 盛岡藩 三春藩 相馬藩
福島藩 二本松藩 湯長谷藩 棚倉藩  
松前藩 弘前藩 八戸藩 泉藩 平藩
守山藩 下手渡藩     会津藩
羽州
米沢藩 上ノ山藩 山形藩 矢島藩 亀田藩
久保田藩 本庄藩 新庄藩 天童藩 庄内藩

赤が白石同盟後に加わった藩。
越州
長岡藩 三根山藩 村松藩
新発田藩 黒川藩 村上藩
※列藩同盟当初の成り立ちは、賊軍とされた会津・庄内両藩の助命嘆願だったため、当事者であった両藩は同盟参加扱いにならない。

◆ 軍事プラン 初期プログラム
"基本3戦略" 「白河戦略」
会津・仙台
新政府軍の白河入城を阻止する事。
無理に攻め込まれた場合、会津藩が決死防戦の事。
鎮撫使下参謀の大逆無道の罪を鳴らして追放の事。
二本松藩は全兵力を挙げて、主要街道を先鋒として進軍する事。
仙台藩は白河城を根拠地として四方諸藩に指示を落とす。
同盟諸藩は応援出兵する事。日和見の藩は厳重に処置する。
会津藩は日光方面に攻め上り、近隣諸藩、散在する旧幕臣と協同して江戸に進撃する。
宇都宮の新政府軍を撃退して周辺諸藩を引き入れ、利根川を境に守備を固め、房総まで手を伸ばし
関東を占領する。江戸は攻めやすいが守りにくいため、北越の動向を見てのちの計画とする。
米沢藩も白河に応援兵を出す事。


「庄内戦略」
庄内・米沢
庄内藩の件を鎮撫使に訴え、賊軍とされた冤罪を解く。
出羽にいる「沢為量」副総督を米沢に迎え入れ、錦の御旗を立てる事。
鎮撫使に従軍する薩長軍に暇を出させて帰国させる。
その薩長軍が暴動を起こした場合、米沢及び近隣諸藩が二心なく討ち取る。
状況次第で庄内藩も出兵させる。


「北越戦略」
長岡・米沢・庄内
薩長軍主力が越後から会津国境に進撃するとの情報があるが、鎮撫使から進撃中止の厳達を引き出す。
無理に攻め込まれた場合、米沢・北越諸藩で共に迎撃し、庄内藩も大挙援軍を送る。
羽州(出羽国)の諸藩も応援出兵する事。
信州、上州、甲州まで手を伸ばし、機を見て関東を攻め取る。
加州・紀州との連合を実現し、新政府軍の勢力を削ぐよう手配する。

総括 鎮撫使下参謀の暴論によって、奥羽二州は愁苦に耐え兼ねて現状に至った(世良修蔵斬殺のこと)。
この件を太政官(政府)始め、全国諸藩に布告し、広く意見を聞く。
米・仏・露などと関係を持ち、軍備を整える。諸外国は会津藩が担当する。
東北のみならず、西南諸藩の同志のもとへも密使を派遣し、東西協力の策略を打ち合わせ、敵を内部から切り崩す。
旧幕臣・海軍と密かに協議し、同時挙兵の手配をする。これも会津藩の担当とする。
京都・江戸にいる藩士を東北に帰還させる。
異論がある久保田藩の説得は米沢藩が行う。同様に八戸藩の説得は南部藩が行う。

◆ 輪王寺宮の同盟盟主就任
【同盟執行部】
盟主 輪王寺宮(皇族)
総督 伊達慶邦(仙台) 上杉斉憲(米沢)
参謀 小笠原長行(元幕閣) 板倉勝静(元幕閣)
諸藩重役代表
一、 (輪王寺)宮様の仮住居は白石城とする。
一、 賄いは、奥羽にある旧幕領の収納をあてる。
一、 彰義隊は是迄通り(輪王寺宮の)護衛にあたる。
一、 列藩君候は早速御機嫌伺いに出馬のこと。
一、 各藩の重役一人ずつ詰めること。
一、 板倉・小笠原両候が凡而管活、従って各藩よりも人選の上
御附の者を差し出し、参謀のような役を勤めること。
一、 御深意を奥羽庶民へ布告し、かつ西国まで達す。

以上を総合し、これら一連の流れを京都新政府に対抗する、東北諸藩による連合政権発足と見る向きもある。

奥羽政権構想
「孝明帝」の義弟「輪王寺宮」を東武皇帝に据えた東北独立政権の原案
仮御所を白石城に定め、奥羽越列藩同盟を基盤とした独自政権の樹立を目指した東北諸藩は、当初の平定ラインを江戸を含む関東以北とし、ゆくゆくは加賀・紀伊を取り込み、京都を挟撃する戦略を立案した。樹立後の予定元号は【大政】。評議会は皇帝の指図を受けない。樹立間際、新政府軍が平潟港へ上陸作戦を開始し、各戦線が敗退を繰り返したため同盟は瓦解。独立構想も霧消した。即位説もある。

−大政元年−
<輪王寺宮政府案>
【奥羽鎮撫総督府+奥羽越列藩同盟】
奥羽列藩は公明正大な政治を心掛け、心を同じく力を合わせる。
上は王室を尊び、下は人民を慈しみ、皇国を護持する。
奥羽越同盟公議府:仙台白石城
東武皇帝 輪王寺宮 皇族
関白太政大臣 九条道孝 公卿
執柄 醍醐忠敬
沢為量
公卿
権征夷大将軍 伊達慶邦 仙台
総副将軍兼総裁 松平容保 会津
越後口奸賊防衛 上杉斉憲 米沢
出羽探題兼守備 佐竹義尭 久保田
− 有志之輩統 −
領軍事総裁 竹中重固 幕臣
海軍総裁 榎本武揚 幕臣
◆ 江戸奪還後の政策
人心を和し上下一致にせん事を論す
言論の自由
賄賂の禁止
賞罰の明確化
国富兵強
軍備を整え、他国の侵略を防ぐ
産業を興し、外国人から技術の導入をはかる
万国と交易し、国を富ませる
諸外国と対等の条約を結び、先進国の仲間入りを果たす

輪王寺宮公現法親王
幻の東武天皇
のちの「北白川宮能久」親王。名は能久(よしひさ)、「公現」は法名。
弘化4年(1847)2月16日、「伏見宮邦家」親王の第9子として生まれ、2歳で「孝明天皇」の父「仁孝天皇」の猶子(兄弟の子の養子)となる。12歳の時、勅命により「輪王寺宮」の後継者に任ぜられ、元治元年(1864)12月、親王位第一等を授けられ、比叡山・東叡山・日光の三山を管領した。【鳥羽伏見の戦い】後、輪王寺宮の居住する上野・寛永寺は旧幕臣「彰義隊」の反政府軍拠点となり、上野戦争勃発に伴って海路品川を発ち、平潟港から東北へと逃れた。

仙台藩 - 外様 62万石
江戸時代、仙台地方を領した外様大名
「伊達政宗」を初代とする東北地方最大の藩。実質石高は200万石ともいわれ、当時の日本で最も大きな藩の一つ。幕末に米沢藩と共に奥羽越列藩同盟の中心となって戦ったが敗れ、28万石に減封された。
支藩:一関藩/岩沼藩/水沢藩(改易)
米沢藩 - 外様 15万石
江戸時代、出羽国米沢地方(現在の山形県南部)を領した藩
中世「大江広元」の子孫「長井氏」が居住。のち「伊達氏」が「長井氏」を追って当地を接収。1590年「伊達政宗」移封後、会津「蒲生氏郷」の領となる。【関ヶ原の戦い(1600)】後の1601年「上杉景勝」が入部し、以後30万石の城下町として繁栄。1664年、養子を認める代償として15万石に減封され、幕末維新まで続く。9代「治憲」のとき藩政改革を実施、特産米沢織を始め、藩の財政を助け、また藩校・興譲館を創建した。幕末には奥羽越列藩同盟に加わり、その中心として新政府に抵抗した。
支藩:米沢新田藩(併合)
庄内藩 - 譜代 16万7千石
江戸時代、出羽国庄内地方(現在の山形県鶴岡)を領した藩
中世「大泉氏」の子孫「武藤氏」ののち、「上杉」の越後領に編入。【関ヶ原の戦い(1600)】後、山形最上領となったが、1622年「最上氏」改易のため、信濃松代より「酒井忠勝」が移封して成立。1840年【三方領地替え】事件を経て幕末維新まで続く。正式には「鶴岡藩」、維新後に「大泉藩」と改称。5代「忠寄」は[老中]として幕政を担うも、中央への出費がかさみ藩の財源は赤字となる。豪商「本間氏」がいたことでも知られ、7代「忠徳」の時、財政再建を委任。当主「本間光丘」は返済計画を立案・実行し、藩財政を好転させた。幕末には征討対象となり、新政府に抵抗したが降伏。12万石に減封された。
支藩:出羽松山藩/左沢(あてらざわ)(廃藩)/大山藩(廃藩)
久保田藩 - 外様 20万石
江戸時代、久保田(秋田市)を城下町とし、出羽国秋田地方を領した外様藩
【秋田藩】ともいう。【関ヶ原の戦い(1600)】ののち1602年、鎌倉時代以来の領主「秋田氏」に代わって、常陸国から「佐竹氏」が移封され、明治維新に至る。表高20万石。幕末に藩主「佐竹義堯」は勤皇派として活躍。【戊辰戦争】に際して、奥羽越列藩同盟に対抗して功を認められた。
支藩:岩崎藩/亀田藩/久保田新田藩(廃藩)

幕末、東北地方の略図
※ 地図内の区切りは現代の県境
白河
戊辰戦争の激戦区。東北地方への陸路玄関口。
両軍ともに戦略上の最重要拠点。
平潟
新政府軍の海路上陸場所。輪王寺宮もここから奥州へ。
新潟
当時の日本を代表する港町。海路東北の玄関口のひとつ。
北越戦線の重要な戦略拠点。
宇都宮
五街道・奥州街道の通る戊辰戦争の激戦区。
白河口への進入を防ぎ、関東進出への戦略拠点。
日光
日光街道の終着点で、今市が戊辰戦争の激戦区。
神君家康公を奉る、徳川家の聖地。
江戸
旧徳川幕府の根拠地。新政府により東京府と改称。
箱館五稜郭
戊辰(箱館)戦争の激戦区。奥羽が鎮圧されたのち、
榎本軍が立てこもった旧幕府勢力の最終防衛ライン。

奥州 陸奥国。宮城から青森一帯。東北全域を指すことが多い。
羽州 出羽国。山形南部から秋田までの地域。
上州 上野(こうずけ)国。現在の群馬辺り。
信州 信州一おみおつけ(CM)。信濃国。
甲州 山梨一帯。甲斐国。
越州 越前・越中・越後からなる北陸3州。
総州 上総、下総の総称。現在の千葉。

東山道 
近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の8か国。
のち陸奥は5国、出羽は2国に分国された。
東海道
伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・
伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の15か国。
北陸道
若狭・越前・越中・越後・佐渡・能登・加賀の7か国。
元々は若狭・越の2国のみで、のちに越国が6国へ分国された。
蝦夷
蝦夷地。現在の北海道を中心に、樺太・千島を含む地の総称。
古代には東北地方も含めていた。

宇都宮の戦い/旧幕府軍(伝習隊)
1868年4月、「新政府軍」と「旧幕府軍」との間で行われた宇都宮城争奪戦
【江戸開城】を不服とした旧幕臣らは市川国府台(こうのだい)に集結。これに主力となる「大鳥圭介」率いる伝習隊が加わり、「旧幕府軍」が組織される。総兵力2,000強と膨れ上がった旧幕府軍は本隊と支隊に分かれ、近隣諸藩に助力を要請しながら天領(旧幕府直轄地)の日光目指して北上を開始。本隊は武井・小山で遭遇した笠間・彦根兵主力の新政府軍を圧倒、支隊は結城藩内紛を経て鎮撫使先遣隊の居城・宇都宮城へ迫り、19日早朝、両軍は城外で交戦。士気で勝り、戦いを優勢に進めた旧幕府軍が宇都宮・烏山兵主力の新政府軍を撃破し、籠城戦へ移行。宇都宮藩は自ら城に火を付け、放棄退却した。

宇都宮で全隊合流、さらに会津・諸隊らの援軍を加えた旧幕府軍は22日未明、返す刀で壬生城へ南下を開始。壬生街道上に布陣した新政府軍増援と安塚で激突した。土佐・鳥取兵主力の新政府軍は旧幕府軍の猛攻の前に瓦解しかけたが、起死回生の突撃を敢行。不手際があった上、まともに痛撃を受けた旧幕府軍は戦線を立て直せず、宇都宮城へ退却した。

薩摩主力の援軍が到着した新政府軍は23日、宇都宮城奪還に向け進撃を開始。旧幕府軍の機先を制して城外に築かれた各陣地を強襲、突破した。後手に回った旧幕府軍は堅固な籠城戦を展開。城下に殺到した新政府軍に一斉射撃を浴びせ、進軍の止まった隙を見て城外へ反攻。内外連携による包囲殲滅作戦が的中し、新政府軍先鋒を蹴散らしたが、別口に「伊地知正治」率いる政府軍別働隊が出現。城守備隊が壊滅、突破されたため戦局は逆転し、宇都宮城は陥落した。旧幕府軍は退路を確保し、日光方面へと逃れた。
清川口の戦い
1868年4月、「新政府軍」と「庄内藩」との間で行われた東北最初の戦闘
清川口の戦い詳細はこちら
市川・船橋の戦い/徳川義軍(撒兵隊)
1868年閏4月、総州(千葉県)で行われた「新政府軍」と「旧幕臣」との戦い
「福田八郎衛門」率いる「撒兵隊」は江戸開城前夜、房総半島に向け海路脱出し、上総国(千葉県)登戸に上陸。「徳川義軍府」を称して木更津に集結、付近一帯を制圧した。

2,000人規模となった徳川義軍は、新政府の武装解除命令を黙殺し、閏4月3日、市原・中山道八幡宿に陣取る新政府軍を強襲、撃破し、そのまま市川・船橋へ2方面作戦を展開。市川の義軍第一大隊は、武器弾薬を奪う戦果を挙げたが、その日の内に新政府軍増援が到着し、戦局は一転。市街戦となった船橋でも拠点の船橋大神宮が炎上し、姉崎まで敗走した。

続く新政府軍の五井進攻で敗北を喫し、姉崎・妙教寺も陥落した徳川義軍は、新政府軍の猛追を受けて四散。義軍府本営でも福田らが逃走し、事実上壊滅した。江戸周辺初の大規模戦闘による徳川義軍敗北の報は、近隣の佐幕派諸藩・旧幕府勢力の士気に大きく影響した。
日光口の戦い
1868年、「新政府軍」と「会津藩・旧幕府軍」との間で行われた日光周辺の戦い
宇都宮城を奪還した新政府軍は北上して今市に拠点を設営、日光を射程に捉えた。
一方、宇都宮から撤退した旧幕府軍と連合した会津軍は、南進策を取るべく日光方面へ進出し、囮部隊を駆使して土佐兵を翻弄。これによって新政府軍は防備を固めた。
閏4月21日、会津・旧幕府軍連合は、新政府軍陣取る今市拠点の包囲殲滅を企てたが、各個撃破され敗退。翌月5月6日、再度正面突破による今市攻略を試みるが、来援によって兵を増強した新政府軍に挟撃され、壊滅的打撃を受けて敗走。以後連合軍は陣地を構築して防御に徹した。

攻守入れ替り6月24日、佐賀兵を主力とした新政府軍は、連合軍陣地を殲滅しつつ鬼怒川沿いに北上を開始。小原沢で頑強な抵抗に遭い進軍を阻まれた新政府軍は、火力を結集して総攻撃を加えたが、これに対する連合軍は撤退するように見せかけ、新政府軍が追撃を開始したところに別働隊が強襲、包囲挟撃作戦で撃退した。以降戦線は2ヶ月にわたって膠着状態に陥るが、8月、会津軍の藤原口放棄により会津国境は破られた。
白河口の戦い
1868年、「新政府軍」と「列藩同盟軍」との間で行われた白河城攻防戦
奥州街道沿いに位置する戊辰東北戦争の最重要拠点「白河小峰城」は、藩主不在のため新政府軍駐留基地として近隣の諸藩兵力が終結していた。さきに歎願書を鎮撫使に蹴られていた東北諸藩は会津藩と通謀、新政府軍主力到着の前に白河城奪取を打診した。これを受けた会津軍はすかさず白河へ進軍、仙台軍は城外へ撤退し、残る二本松・棚倉軍も交戦の素振りだけ見せ撤退。会津軍は労せずして白河城を制圧した。

会津・旧幕府軍連合は秘密裏に那須方面へ進出、これを察知した周辺諸藩は宇都宮の新政府軍へ救援を要請した。薩長・大垣軍ら主力の新政府軍は、大田原城へ入城、那須方面の会津・旧幕府軍連合を駆逐し、25日未明、白河城攻撃を開始したが、会津軍の頑強な抵抗と旧幕府軍の反撃によって損害を被り、敗走した。

会津・仙台・棚倉らの列藩同盟軍は続々と白河城へ入城し、総兵力2,500余りに膨れ上がった。宇都宮より増援を加え、約700名と拡充した新政府軍は5月1日未明、行動を開始。戦況を確認し、再度白河城へと襲い掛かった。新政府軍は3隊に軍を分け、白河城を囲む三つの山を制圧、猛烈な砲撃を浴びせて序盤でほぼ戦局を決めた。同盟軍も反撃を試みるが、指揮官の戦死が相次ぎ、1,000人以上を失う大惨敗を喫して白河城は陥落、潰走した。

以後、同盟軍は白河城奪還へ散発的に攻撃を続けたが、ことごとく迎撃され、膠着状態に陥った。15日、江戸で一大勢力となっていた彰義隊が敗北を喫し、関東を平定した新政府軍が本格的に兵力を増強し始め、白河奪還は困難となったところへ6月には追討軍が新たに平潟へ上陸。均衡を保っていた奥羽の戦力バランスは大きく新政府軍へ傾き、軍事・政局共に列藩同盟は苦境へと立たされた。
上野戦争/彰義隊
1868年5月、江戸開城に反対し、新政府軍と戦った旧幕臣の1隊
【鳥羽伏見の戦い】後、上野寛永寺に蟄居謹慎した「徳川慶喜」の護衛として「渋沢成一郎」ら旧幕臣の有志が結成。【江戸開城】後も寛永寺を拠点として上野山主「輪王寺宮」の警護と、江戸の市中取締りを行っていた。上野付近は両軍の小競り合いも多く、再三の武装解除を無視された新政府は討伐軍を編成し、5月14日に事実上の宣戦を布告。翌15日朝、両軍は交戦状態に入った。彰義隊の奮戦は短く、午後以降は徐々に押され、寺院が大砲射程圏内に入るとアームストロング砲を投入した新政府軍が火力に勝り寺院は炎上、隊は四散して壊滅した。多くは残党狩りで捕縛されたが、逃れて各地に転戦した者もいた。
飯能戦争/振武軍
1868年5月、武州(現在の埼玉県飯能市)で行われた「新政府軍」と「旧幕臣」との戦い
飯能戦争詳細はこちら
箱根戦争/遊撃隊
1868年5月、箱根山崎で行われた「新政府軍」と「旧幕府勢」との戦い
【鳥羽・伏見の戦い】に敗れて江戸へ帰還した「遊撃隊」は、「彰義隊」他、主家従等へ分裂した。

遊撃隊士「伊庭八郎」「人見勝太郎」らは、【江戸開城】を不服として若手隊士や隊外の抗戦派を取り込み挙兵を画策。榎本艦隊に同乗し、上総国(千葉県)館山に上陸し、請西藩に同盟を提案。請西藩主「林忠崇」はこの提案受け入れ、藩は恭順、領地を朝廷へ返上して藩士61名と共に脱藩し、房総各藩に助力を要請して周った結果、脱藩藩士らを加えた約250名による新たな「遊撃隊」が組織される。

閏4月、江戸と西国の新政府軍を分断する箱根迎撃案を採用した遊撃隊は相模へ渡航。徳川恩顧でありながら薩長主導の新政府に恭順、協力した尾張・紀伊・彦根藩を痛烈に批判し、【東海道同盟】を謳って周辺諸藩に徹底抗戦を呼びかけた。

隊が小田原→伊豆→甲府→沼津を経たところで、江戸では上野戦争が勃発。これに呼応し、箱根の関所を通過しようとした遊撃隊と、これを拒んだ小田原藩守備兵とが衝突した。小田原藩は藩論が佐幕となって一時和睦するが、新政府軍が城下に迫ると一転して陳謝恭順。 両軍は再度山崎で交戦状態に入った。遊撃隊は小田原軍相手に奮戦するが、長州ら主力軍約2,000が前線に配備されると猛攻に耐え切れず箱根湯本へ敗走。海路熱海から館山へ退却し、主戦場となった奥州へ渡航した。
磐城の戦い
1868年6月、「新政府軍」の平潟上陸による「列藩同盟軍」との周辺地域を巡る戦い
作成中



白虎隊TOPドラマ概略前篇 時代背景後篇 時代背景参考資料Mailform

前篇 京都動乱後篇 落城の賦