飯能戦争
 徳川十五代将軍慶喜は慶応三年大政を奉還し、翌四年江戸城を明け渡したが、家臣の中には江戸に残留して抗戦を続ける者も多かった。渋沢成一郎、尾高惇忠らと旗本天野八郎らは同志を集めて「彰義隊」を結成し、上野寛永寺にこもり、官軍との対決を叫んでいた。しかし、内部では江戸市外で戦おうとする渋沢派と、江戸市内で決戦を主張する天野派との対立が生じ、渋沢派は彰義隊と分かれて「振武軍」を結成した。振武軍は江戸をはなれ上野の彰義隊の動静をうかがっていたが、慶応四年五月十五日、官軍の総攻撃にあい、彰義隊壊滅の報を受けた。そこで飯能に退き、本営を能仁寺に置いて、近くの六か寺に兵を配置し、官軍との決戦に備えた。そのため飯能周辺の村々から軍用金や馬、兵糧などの調達を行った。
 上野の戦いが終ると、官軍は振武軍の追討にむかい、戦いは五月二十三日払暁、笹井河原での衝突をきっかけに、両軍の激戦が開始され、夜明けとともに、官軍の大砲が振武軍のたてこもった寺をつぎつぎと攻撃した。ついに砲弾が本営能仁寺本堂の屋根に命中して火災をおこし、振武軍は圧倒的な勢いの官軍の攻撃にあい、決死の奮戦もむなしく惨敗した。渋沢平九郎は、顔振峠から黒山に逃れ、そこで官軍の兵士に包囲され、自刃した。この戦闘は二日で終ったが、古刹能仁寺をはじめ、四か寺が焼失、民家二百戸以上を焼失した。地元ではこれを飯能戦争と呼んでいる。
昭和五十五年三月 埼玉県

振武軍本営 能仁寺
県道に面する正面入口。 入口から中へ。 境内。広い。
「能仁寺(のうにんじ)」は平地よりも若干高台に位置し、背後に天覧(羅漢)山を擁する要害とされた。振武軍はここを本営として約150人が駐屯。他、飯能市内の「観音寺」に約50人、「広渡寺」に約40人、「智観寺」約100人、「心応寺」約50人、「天宝寺」に約50人とに分宿したとされるが、人数は諸説あり、総兵力500とするものから1,500人を越えるものまでと幅広い。
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「天覧山」複数名称の理由は、元来「愛宏山」と呼ばれていたが、徳川5代将軍綱吉の生母「桂昌院」が十六羅漢を奉納したことから「羅漢山」と付けられ、のち明治天皇がこの羅漢山頂から陸軍演習を統監、現在の呼び名となった。

振武軍
頭取:渋沢成一郎 副頭取:尾高惇忠 参謀:渋沢平九郎
旧幕臣・彰義隊残党を含め、約500〜1,500以上とされる。
上野勢彰義隊の天野派と分かれて田無へ退いた渋沢派は、西光寺にて振武軍を結成。同時挙兵も視野に入れ上野の動向を窺うが、この地が決戦には向かないとして後退、箱根ヶ崎(現瑞穂町)に駐屯した。日光・青梅・八王子と繋がる交通の要衝を押さえた振武軍は、3日間滞在ののち、15日の上野戦争による彰義隊壊滅の報せを受け再度後退。18日、飯能へ移って六か寺へ布陣し、新政府軍迎撃態勢を整えた。
←振武軍が名栗など周辺各村へ回した廻文。
 (上画の振武軍旗と合わせて複製とのこと)

各村一人ずつ出頭させよとの内容だが、具体的に進展せず敗戦した。考えられるのは資金徴収か農軍編成の打ち合わせ。
※頭取「渋沢成一郎」は戦闘後に秩父へ落ち延び、のち箱館戦に従軍。
新政府軍(官軍)
軍監:尾上四郎左衛門(久留米藩) 総督御所付:松平周防守(川越藩)
川越・忍・筑前・筑後・芸州・備前・延岡・佐土原・大村藩など、約2〜3,000。
(上野脱走軍相手に多すぎるきらいがあるので、この中のいずれかの藩と推察)
5月15日、振武軍鎮圧に向けて川越へ入城、帰順させた新政府軍は「脱走軍入間越境」の報を受け、坂戸村、入間川からの挟撃作戦を展開したが、振武軍はすでに飯能へと転進していた。新政府軍はこの間新たに増援を加え、飯能へ伸びる主要街道をすべて押さえて市街を取り囲み、22日夕刻、笹井河原で斥候同士が激突、両軍は交戦状態に突入した。新政府軍は翌未明に飯能総攻撃を開始する。
←当時の砲弾と銃弾。

新政府軍は圧倒的火力で振武軍を撃滅した。
飯能戦争民話

外部リンク
能仁寺
http://www.nonin-ji.jp/
飯能市郷土館
http://www.city.hanno.saitama.jp/kyodo/index.html


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