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* | 尊王攘夷論(尊攘論) |
攘夷論と江戸中期から勃興してきた尊王論が結合した幕末の政治的思想 | |
思想内容は皇室崇拝と外国人排撃、上下の身分秩序確立、華夷の別を明瞭にすることなどが中心。発生は水戸学で、初め水戸藩主「徳川斉昭」らが幕藩体制強化の意味で提唱。 開国による物価上昇などに対する下級武士の反幕的排外運動で頂点に達し、下級武士らの政治行動の理念となった。 ※【八月十八日の政変】以後、この運動は尊王討幕に転換。 【明治維新】後は姿を変えて天皇支配の思想的支柱となった。 | |
* | 尊王論 |
近世における天皇崇拝の思想 | |
朱子学の【大義名分論】による【尊王斤覇論】、国学の勃興による古道の研究、復古神道の発生、国史研究などに支えられて高揚。幕末には攘夷論と結合し、政界を動かす一大思潮となる。明治維新後は天皇制政府の思想的支柱、昭和初期には右系運動の指導理論となった。 | |
* | 攘夷論 |
江戸後期に盛行した排外思想 | |
儒学の【中華思想】に基づく【本朝独善思想】と国学の【神国思想】が合体して発生。幕末になると外国勢力の圧力を感じて民族的反発と国家危機意識が高揚し、長い鎖国体制化で外国事情に暗かったため、特に極端な排外主義となる。 一方、尊王論と結んで尊王攘夷論となり、討幕運動にまで発展した。 | |
* | 開国論 |
江戸後期に興った、鎖国策を改め対外関係拡大を主張した論議 | |
18世紀末「工藤平助」・「本田利明」らが貿易による国富増進を論じ、19世紀初め「佐藤信淵」が海防上から通商を論じた。ペリー来航以後、【経済的開国論】は【政策的開国論】となり、「佐久間象山」・「横井小楠」らの開国論となった。 安政の開国後は、反幕的な尊王攘夷論に対抗して佐幕論と結合した。 | |
* | 佐幕論 |
幕末期、幕府の政策を支持してその命脈を維持させようとする主張 | |
19世紀中ごろから幕府の崩壊期に入ると、尊王攘夷運動が討幕運動に転化して革新的方向を明らかにしてきたのに対し、幕府独裁の伝統を支持して保守的性格を持った。 ※会津・仙台・米沢・庄内藩など奥羽諸藩が主唱したが、【戊辰戦争】に敗れて衰滅した。 | |
* | 公議政体論 |
幕末、衆議による政府樹立の主張 | |
土佐藩による「坂本龍馬」の【船中八策】に基づき、従来の【公議興論】【列藩会議論】に欧米の議会政治思想を導入したもの。幕府の独裁をやめ、天皇のもとに将軍「徳川慶喜」を議長とする列藩会議を開催することを主張して、大政奉還を成功させた。 その後の【五箇条の誓文】における【万機公論】【政体書】における【三権分立】などにもこの思想が反映している。 |
* | 尊王攘夷運動 |
幕末に下級武士が中心となって進めた反幕的・排外的政治運動 | |
幕末、外国勢力の圧迫のもとに封建制度の危機が意識されると、封建的排外主義の攘夷運動が芽生え、尊王論と結合。初めは弱い運動であったが、開国の結果、物価が騰貴すると、下級武士を中心に極端な排外運動を含む政治運動が起こった。 桜田門外の変(1860)以後各地の尊攘派は結合し、公武合体運動と抗争しつつ高揚を見せ、【生麦事件(英人殺傷)】や反対派の暗殺などが起こった。 1863(文久3)年、八月十八日の政変で一旦挫折。翌年、禁門の変で徹底的な敗北を受け、薩英戦争・下関事件で外国勢力との武力衝突の無謀さと攘夷の不可能が明白となると、以後尊王攘夷運動は、現状打開、幕政批判、討幕運動として展開していった。 | |
* | 公武合体運動 |
幕末、公(朝廷)武(幕府)の提携により政局安定をはかろうとした政治運動 | |
「井伊直弼」の死後、幕府権威の補強策として幕府や薩摩・土佐・越前・宇和島の諸藩によって推進され、1862年、「孝明天皇」の妹「和宮」の「14代将軍 徳川家茂」への降嫁が実現した。 坂下門外の変(1862)後は、幕府は主導権を失い、翌年、八月十八日の政変で尊攘派は一掃され、公武合体派雄藩大名による政局指導が実現したが、長州藩で藩論が「討幕」に転換すると、政局は一転して尊王・討幕運動に押され、薩長連合(1866)の成立により消滅した。 のち、かつての公武合体派からは公議政体論が打ち出された。 | |
* | 討幕運動 |
江戸末期の幕府打倒のための運動 | |
【倒幕運動】とも書く。(メインコンテンツ内表記は「倒幕」で統一) 1863年、天誅組の乱に始まり、1866年、それまで公武合体運動の主力であった薩摩藩が尊王攘夷派の長州藩と手を組んで、薩長連合を結成してから本格化した。これに対し幕府は、土佐藩を主力とする大政奉還派と組んだ。 なお、国際的にはイギリスと討幕派、フランスと大政奉還派が手を結んだ。 1867年10月14日、大政奉還の上表文が出された日に討幕の密勅が下るなど、二つの動きが絡み合う中で12月9日に王政復古が宣言され、次いで1868年には戊辰戦争が始まり、討幕派が決定的な勝利を占めた。 | |
* | ええじゃないか |
幕末におこった「打ちこわし」を伴う大衆の乱舞 | |
世直しの性格を持つ。 1867年8月、名古屋で寺社のお札などが降ったという噂に端を発し、老若男女が「ええじゃないか」とはやしたてて乱舞し、富商・村役人などの家に押し入った。たちまち京都・大坂・江戸など全国に及び、12月に終わった。 討幕志士の策動とも考えられ、これにより民衆のエネルギーが歪められた方向に消耗され、その混乱が討幕派に利用されたと見られる。 |
* | 桜田門外の変 劇中「前篇 其の一」 |
幕末、尊攘派志士による大老「井伊直弼」暗殺事件 | |
「井伊直弼」が【将軍継嗣問題】で「徳川慶福(家茂)」を継嗣に決定、また、勅許を待たずに【日米修好通商条約】に調印し、反対派を【安政の大獄】で弾圧したことなどが原因となり、1860年3月、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士18名によって襲撃され、殺害された。 この事件により幕府の威信は失墜した。 | |
* | 坂下門外の変 劇中未描写 |
1862年、尊攘派志士による老中「安藤信正」襲撃事件 | |
公武合体策を推進して【和宮降嫁】を実現した「安藤信正」は、さらに廃帝の企てを持っていると噂され、尊攘過激派の怒りを招き、水戸・宇都宮浪士ら6名によって江戸城坂下門外で襲撃され負傷し、やがて辞職。 以後、公武合体運動に代わり、尊皇攘夷運動が盛んとなった。 | |
* | 薩英戦争 劇中未描写 |
幕末、鹿児島沖で行われた「薩摩藩」と「イギリス東洋艦隊」との海戦 | |
1862年の【生麦事件(英人殺傷)】後、薩英間に紛争が生じたが解決に至らず、イギリス艦隊7隻が鹿児島沖に出動。翌1863年鹿児島を砲撃した。薩摩藩もこれに応戦したが、勝敗は決しなかった。事件後、薩摩藩とイギリスは和解し、両者は接近した。 | |
* | 天誅組の乱 劇中未描写 |
幕末、大和国(奈良県)でおこった尊攘討幕派志士の最初の挙兵事件 | |
【十津川の変】【大和五条の変】ともいう。 「藤本鉄石」・「吉村寅太郎」らが「孝明天皇」の大和行幸の先駆をしようとし、1863年、公卿「中山忠光」を主将として挙兵。8月17日、大和五条の代官所を襲撃したが、八月十八日の政変で行幸は中止となり、形勢逆転し、諸藩によって鎮圧された。 | |
* | 八月十八日の政変 劇中「前篇 其の五」 |
1863(文久3)年8月18日、公武合体派による京都朝廷からの尊攘派追放事件 | |
尊攘派が朝廷を動かし、挙兵討幕の手段として攘夷親征・大和行幸の詔を出させたことに対し、公武合体派の薩摩藩が京都守護職「松平容保」らと計って、8月18日未明、機先を制して御所を警護して朝議を一変し、急進派の公卿の参内を禁じた。長州藩は御所警護の任を解かれ、「三条実美」ら尊攘派の公卿は長州藩へ逃れて尊攘派勢力は一時衰退し、翌年、禁門の変を起こした。 | |
* | 七卿落ち 劇中「前篇 其の五」 |
幕末、尊攘派の7人の公卿が失脚して京都から長州に逃れた事件 | |
1863(文久3)年、八月十八日の政変により公武合体派が優勢になったため、「三条実美」・「沢宣嘉」・「東久世通禧」ら尊攘派の7公卿が京都を脱出、海路周防(山口県)三田尻へ逃れた。長州と結ぶ尊攘派勢力は一時、朝廷から一掃された。 | |
* | 池田屋事件 劇中「前篇 其の五」 |
1864年、幕府による尊攘派弾圧事件 | |
八月十八日の政変(1863)後、尊攘派が入京して勢力回復の機をうかがい、「中川宮(朝彦親王)」らを暗殺しようと企てた。幕府側ではこれを探知し、京都三条小橋の旅館池田屋に会合中の長州藩などの志士20余名を、新撰組が急襲、多数を殺傷、逮捕した。この事件により長州藩論は硬化し、禁門の変の一原因となった。 | |
* | 禁門の変 劇中「前篇 其の五」1シーンのみ |
1864(元治1)年、京都でおこった長州藩の出兵による兵乱 | |
【蛤御門の変】【元治甲子の乱】ともいう。 八月十八日の政変(1863)で京都を追われた長州藩は、勢力回復のため藩主父子の無実を訴え、尊攘派7公卿の赦免を願ったが許されず、さらに池田屋事件が起こったことから出兵、入京して、薩摩・会津・桑名の藩兵と蛤御門付近で交戦したが敗北。 長州征伐の発端となる。 | |
* | 下関事件 劇中未描写 |
幕末、長州藩による外国船砲撃と外国による報復砲撃事件 | |
1863年、文久の【外国船打払令】によって、長州藩が下関海峡通行中のアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃したため、イギリスを加えた4ヶ国連合艦隊は、翌1864年下関砲台を攻撃(馬関戦争)、長州藩を屈服させた。これにより長州藩は攘夷の不可能を認識するに至り、以後イギリスに接近した。 また、この事件は勅命によって全国諸藩に布告した経緯から多額の賠償金を幕府が支払ったため、欧米列強に日本そのものが敗北した戦争とも取れる。 | |
* | 長州征伐 劇中未描写 セリフのみ |
幕末、2回にわたって行われた幕府による長州藩征伐 | |
【幕長戦争】【長州戦争】ともいう。 *第1次 <1864> 禁門の変後、長州藩追討の勅命により実行されたが、英・仏・蘭・米連合艦隊下関砲撃事件で敗北した長州藩では保守派が台頭。恭順の意を表し、戦わずして幕府軍に屈服した。 *第2次 <1865〜1866> 幕府勢が4方向から攻め立てたことから【四境戦争】ともいう。 奇兵隊などの諸隊による保守派の打倒により長州藩の態度が一転硬化したため、幕府は再征を決したが、薩摩藩の出兵拒否など再征反対の空気は強く戦況も不利であったので、14代将軍「徳川家茂」の死を機に撤兵。この結果、幕府の権威は完全に失墜した。 | |
* | 薩長連合 劇中「前篇 其の六」 |
幕末、「薩摩藩」と「長州藩」との間に結ばれた同盟 | |
【薩長同盟】ともいう。(メインコンテンツ内は「薩長同盟」で表記) 1865年、幕府が第2次長州征伐を決定したころから、薩摩藩では「大久保利通」らの討幕派が藩論を動かし、薩長両藩の指導層は急速に接近した。翌1866年、京都で土佐藩士「坂本龍馬」らの仲介によって長州藩の「桂小五郎」、薩摩藩の「小松帯刀」・「西郷隆盛」らとの間に、討幕のための秘密軍事同盟が結ばれた。 | |
* | 薩土盟約 劇中未描写 |
幕末、「薩摩藩」と「土佐藩」との間に結ばれた盟約 | |
1867年6月、武力討幕を企てる薩摩藩と、大政奉還・公議政体が藩論の土佐藩との間に結ばれたもので、大政奉還による【列候公義政体】を打ち出した。しかし同年10月、討幕の密勅降下後に破棄された。 | |
* | 大政奉還 劇中未描写 セリフのみ |
1867年、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」の朝廷への政権返上 | |
薩長連合(1866)以後、討幕運動が進展する過程でこれを回避するため、前土佐藩主「山内豊信」は、藩士「後藤象二郎」を通じて大政奉還と公議政体の案を幕府に提出した。慶喜はこれを受け入れ、薩長両藩への討幕の密勅降下と同じ10月14日、政権返上を朝廷に上奏、翌日許された。これは雄藩連合政権下での「徳川氏」の存続(首相「慶喜」の実現)や土佐藩の発言権増大を狙ったものであったが、武力討幕を堅持する薩長派による王政復古・戊辰戦争で遮られた。 | |
* | 討幕の密勅 劇中未描写 |
1867(慶応3)年10月14日、薩摩・長州両藩に対してひそかに出された討幕の勅書 | |
武力討幕を企てた薩長両藩は、芸州(広島)藩を加えて挙兵の盟約を結び、朝廷より討幕の密勅を得た。 この密勅は形式が異例のため、偽勅説がある。 | |
* | 王政復古 劇中未描写 テロップ、ナレーションのみ |
1867年、江戸幕府を廃し天皇親政を実現した政変 | |
「岩倉具視」を中心とした薩長ら討幕派は、土佐藩らの前将軍「徳川慶喜」をも加えた公議政体論を抑え、クーデターを敢行。[摂関]・[幕府]の廃絶、[総裁−議定−参与]の三職設置、「諸事神武創業の始に原く」ことを宣言する【王政復古の大号令】を発した。 これにより皇族・公家・藩主・有力武士による新政権が誕生した。 | |
* | 小御所会議 劇中未描写 |
明治維新期、京都御所内の小御所で開かれた御前会議 | |
1867(慶応3)年12月、大政奉還後の「徳川氏」の処分について論議が行われ、「岩倉具視」・「大久保利通」らの武力討幕派が幕府勢力を一掃するため、「山内豊信」・「松平慶永」らの公議政体派を抑えて、「徳川慶喜」の官位辞退・所領返納(辞官納地)を決定。武力討幕の端緒となり、戊辰戦争を誘発した。 | |
* | 鳥羽・伏見の戦い 劇中「前篇 その七」 |
1868年1月、京都南郊の鳥羽・伏見で行われた 「新政府軍」と「旧幕府勢」との戦い | |
王政復古後も薩長の武力討幕派は「徳川慶喜」の辞官納地を要求すると共に、江戸で薩摩藩が挑発的行為に出たため、憤激したの会津・桑名藩兵らは3日、大坂より京都へ進軍。軍は鳥羽街道と伏見市街を分かれて進んだが、鳥羽で薩摩藩が入京を拒否、発砲し開戦。これにより伏見でも戦端が開かれる。討幕派諸藩が優勢のまま翌4日も戦闘は続き、5日、討幕派に錦旗が下りて正式に朝廷軍となると、恭順する藩が出現。これにより旧幕府側の劣勢は確定し敗走、完敗した。戊辰戦争の発端となった。 | |
* | 阿波沖海戦 劇中未描写 |
1868年1月、兵庫沖で行われた「旧幕府海軍」と「薩摩藩」との近代艦隊戦 | |
大阪湾に停泊し、鳥羽・伏見の戦いの戦況を見守っていた旧幕府海軍は、4日朝、薩摩艦艇「春日」・「翔鳳」・「平運」の3艦が港より出向したため、「陸では交戦状態にある」としてこれを追跡した。追いつかれた薩摩艦隊は「春日」が発砲、旧幕府海軍も「開陽丸」で応戦し、交戦状態に突入するが、「春日」は早期に戦域を離脱した。「開陽」は「春日」の速度に追いつけず、決定的な勝敗こそ決しなかったものの、「翔鳳」が浅瀬に乗り上げ、自沈に追い込んだ。 | |
* | 甲州柏尾の戦い 劇中未描写 |
1868年3月、甲州勝沼で行われた「新政府軍」と「旧幕臣」との戦い | |
鳥羽・伏見の戦い後、「甲陽鎮撫隊」と改めた新撰組主力の旧幕臣らが、先に甲府入城を果たした新政府軍と甲府手前の勝沼で交戦。鎮撫隊は数の上で劣勢だったが、砲煙を利用し一度は新政府軍を撃退した。これに対し新政府軍は「谷干城」率いる増援を甲府城より繰り出して挟撃を開始。戦線は崩壊し、鎮撫隊は敗走した。 翌4月、隊が下総流山に布陣していたところを北上途中の新政府軍が包囲、「近藤勇」が捕縛された。以後、江戸開城を経て、主戦場は北関東・東北へ移った。 | |
* | 江戸開城 劇中未描写 |
1868(慶応4)年の江戸城明け渡しのこと | |
戊辰戦争に際して、新政府軍は3月15日を江戸城総攻撃と決定したが、「山岡鉄舟」の奔走、「西郷隆盛」と「勝海舟」の会談により回避され、4月11日、無血開城した。 |
* | 朝廷 | ||||||||||||||
古代〜近世における天皇の政庁 | |||||||||||||||
「大和朝廷」以来、天皇を中心に豪族がここで政治を行った。平安中期より政治の実権を失ったが、【二官八省】の制を存続し、祭政のうちの祭祀と儀礼面を残した。武家時代には幕府に対立する語として使用され、江戸幕府崩壊後、名実ともに実権を回復した。1885年、内閣制度実施により、宮中と府中(政府)とに明確に分離された。 | |||||||||||||||
* | 江戸幕府 | ||||||||||||||
「徳川家康」が江戸に開いた最後の武家政権 / 1603(慶長8)年「家康」の征夷大将軍拝命から、1867(慶応3)年「慶喜」の大政奉還に至る265年間継続 | |||||||||||||||
【徳川幕府】ともいう。 幕府の機構は3代将軍「徳川家光」の時ほぼ整い、[将軍]の下に[老中]が政務を総轄、[若年寄]がこれを補佐した。中央にはさらに[寺社]・[町]・[勘定]の三奉行などがあり、地方には[京都所司代]・[大阪城代]・[遠国奉行]・[郡代]・[代官]などを配して天領を統治し、原則として[譜代大名]・[旗本]から任命された。経済的基礎は天領400万石(旗本給地300万石を含まず)からの貢租が中心で、ほかに直轄鉱山からの収入や、冥加・運上などであった。 大名領でも幕府の方針に即応した政治が行われた。 | |||||||||||||||
* | 徳川氏 | ||||||||||||||
江戸幕府の征夷大将軍家 | |||||||||||||||
「新田氏系得川氏」の末裔とされている。家紋は有名な三つ葉葵。 元は三河松平郷を本拠とした豪族で、「広忠」の時、「今川氏」に属す。子の「家康」は1566年、「松平氏」から「徳川氏」に改称し、「豊臣秀吉」死後、対抗する勢力を一掃。1603年、[征夷大将軍]となり江戸幕府を開設し、以後15代265年間子孫が将軍職を世襲し、全国を支配した。 ※徳川氏は本家と御三家・御三卿だけで、庶流は松平氏を称した。 | |||||||||||||||
* | 幕藩体制 | ||||||||||||||
江戸時代において、幕府が諸藩を従え、将軍および 大名の強い領主権のもとに全国の土地・人民を支配した政治体制 | |||||||||||||||
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* | 親藩 | ||||||||||||||
江戸時代、大名の家格の1つ | |||||||||||||||
江戸時代の大名は幕府との親疎により、[親藩・譜代・外様]の3つに分けられた。 親藩は「徳川家康」以後「徳川」の子弟で大名になったものを言い、譜代と共に外様大名を牽制する役割を担った。特に尾張・紀伊・水戸を【御三家】と呼んだ。 | |||||||||||||||
* | 譜代大名 | ||||||||||||||
江戸時代、大名の家格の1つ | |||||||||||||||
【関ヶ原の戦い(1600)】以前より「徳川家」に属したもの。幕府の要職を占め、外様大名牽制の目的で親藩と並んで要地に配置されたが、石高は5万石以下が多く、最高は「井伊氏」の35万石。18世紀末には、大名総数254家中136を占めた。 | |||||||||||||||
* | 外様大名 | ||||||||||||||
江戸時代、大名の家格の1つ | |||||||||||||||
親藩・譜代大名に対し、もと「家康」の同僚で【関ヶ原の戦い(1600)】ののち臣従した大名をいう。前田・島津・伊達・毛利など大藩ではあったが、辺境地帯に封ぜられ、要職から外され冷遇・警戒された。 幕末の討幕運動はこれらの西南雄藩から起こった。 | |||||||||||||||
* | 京都所司代 | ||||||||||||||
江戸幕府の職名 | |||||||||||||||
京都の護衛、禁中・公家の観察や連絡、京都町奉行らの統率、京都周辺8か国の天領における訴訟の処理、西国大名の監督などに当たった。 室町幕府の[侍所所司代]に由来し、1600年「奥平信昌」が初任。次いで「板倉勝重」・「重宗」父子が任ぜられて以来、譜代から選任され、[老中]に次ぐ要職であった。1867年廃止。 | |||||||||||||||
* | 京都守護職 | ||||||||||||||
幕末、江戸幕府の職名 | |||||||||||||||
尊皇攘夷運動による京都の治安の乱れと朝廷の動向に不安を感じた幕府が、1862年に設置したもの。京都所司代の上にあって京都の治安維持と御所の警衛に当たった。初代には会津藩主「松平容保」が任ぜられ、1857年廃止された。 | |||||||||||||||
* | 会津藩 - 親藩 23万石 | ||||||||||||||
近世、陸奥岩代(福島県)会津地方を領した藩 | |||||||||||||||
中世「葦名氏」の支配に次いで、「伊達」・「蒲生」・「上杉」、再び「蒲生」・「加藤氏」が領し、1643年「保科正之」が藩主となり、会津松平藩の祖となった。石高23万石。 元禄(1688〜1704)以降藩財政が窮迫し、寛政の頃(1789〜1801)、臘(ろう)・漆などの専売制を強化して藩政改革を行う。9代「松平容保」は京都守護職となり佐幕派の中心として活躍。維新には新政府軍の征討を受け抗戦するが、のち降伏した。 | |||||||||||||||
* | 白虎隊 | ||||||||||||||
戊辰戦争に際し、会津藩で組織された少年隊 | |||||||||||||||
会津藩の軍制改革により16〜17歳の藩士の子弟で組織。士中一番、二番隊とに分けられる。1868年、会津藩が明治新政府に反抗した際、一緒に奮戦して多くは戦死。二番隊の生存者は飯盛山で鶴ヶ城の火焔を見誤り自刃した。 | |||||||||||||||
* | 新撰組 | ||||||||||||||
幕末、京都守護職のもと、京都の治安維持にあたった浪士隊 | |||||||||||||||
1863年結成され、隊長は「近藤勇」。尊攘・討幕派弾圧に活躍、特に池田屋事件は有名。 鳥羽・伏見の戦いに敗れて、まもなく四散した。 | |||||||||||||||
* | 桑名藩 - 譜代 → 親藩 10万石 | ||||||||||||||
江戸時代、三重県北部を領有した藩 | |||||||||||||||
【関ヶ原の戦い(1600)】後、「本田忠勝」が10万石で就封。以後「久松松平家」・「奥平松平家」、再び「久松松平家」が入封し、明治維新に至る。幕末、藩主「松平(久松)定敬」は京都所司代となり、戊辰戦争では佐幕諸藩の中核として会津藩と共に活躍。新政府軍に抗し、6万石に減封された。 | |||||||||||||||
* | 薩摩藩 - 外様 77万石 | ||||||||||||||
江戸時代、薩摩・大隅・日向3国77万石を領した外様大名 | |||||||||||||||
「鹿児島藩」ともいう。藩主「島津氏」は鎌倉時代以来の守護。 【関ヶ原の戦い】以降、「徳川氏」に服し、琉球12万石をも支配。江戸後期には藩財政が窮迫し、1827年「調所広郷」を中心に藩債整理、砂糖など特産物の増産、専売制の強化を主とする藩政改革を実施。13代「島津斉彬」は藩営工場を建設し、富国強兵に努めた。幕末維新期には「島津久光」を中心に公武合体運動を進めたが、のちに「大久保利通」・「西郷隆盛」らが出て討幕運動を推進した。 | |||||||||||||||
支藩:佐土原藩 | |||||||||||||||
* | 長州藩 - 外様 36万石 | ||||||||||||||
江戸時代、周防・長門を領した外様藩 | |||||||||||||||
「萩藩」・「毛利藩」・「山口藩」ともいう。藩主「毛利氏」36万石。 戦国時代、「毛利元就」が中国10か国を支配。 孫「輝元」が【関ヶ原の戦い】に敗れて36万石に減封され、居城を萩に定める。減封後、検地を行い、石高を増加。江戸中期以降の藩債の増大は農民を苦しめ、各地で百姓一揆が起こった。天保年間(1830〜1844)、「村田清風」らの藩政改革が行われ、財政緊縮・殖産興業・富国強兵の道を歩み、尊王攘夷運動の根源地、討幕勢力の中心となる。明治維新後には薩摩と共に【藩閥】を形成した。 | |||||||||||||||
支藩:岩国藩 長府藩 徳山(下松)藩 / 孫藩:清末藩 | |||||||||||||||
* | 土佐藩 - 外様 20万3千石 | ||||||||||||||
江戸時代、土佐(高知県)を領した外様大名 | |||||||||||||||
藩主「山内氏」藩高20万石、正式には「高知藩」。 【版籍奉還】当時は実高49万石を超えたとされる。 「長宗我部元親」が土佐1国を平定。子の「盛親」は【関ヶ原の戦い】で西軍に属し所領を没収され、1601年「山内一豊」が入国、高坂山に高知城を築く。2代「忠義」の時、「野中兼山」により藩政を確立。のちに天明・天保の改革では財政緊縮、国産藩営専売を確立した。維新の改革には、前藩主「山内豊信」を中心に公武合体、大政奉還に努力し、薩摩・長州・肥前と共に指導的役割を果たし、【藩閥】を形成した。 | |||||||||||||||
支藩:中村藩(廃藩) 土佐新田藩 | |||||||||||||||
* | 官軍 | ||||||||||||||
帝(天皇)に属する正規軍 | |||||||||||||||
明治維新後は政府軍のことを指す。 尊王思想が根ざす日本史上において「天皇の軍隊」という意識は、軍全体の士気にも大きく影響した。 | |||||||||||||||
* | 賊軍 | ||||||||||||||
日本史上、その軍の正当性を否定する言葉 | |||||||||||||||
「朝敵」・「逆賊」ともいう。天皇(朝廷)の意思にそぐわないとされた側の軍を指す。 明治維新後は、反政府軍のことを意味するようになった。 |
* | 藩 |
江戸時代、大名の支配する領域および支配機構の総称 | |
幕藩体制下の行政単位で幕府に服属したが、一定限度政治的・経済的に独立する主体性を持っている。 その成立には相違があるが、共通した藩政組織を持ち、城下町を中心に集権的政治を行った。藩の財政的基盤は、農民から徴収される現物貢租が主要なもの。明治維新後、【版籍奉還】【廃藩置県】を経て解体された。 | |
* | 雄藩 |
幕末、勢力の雄大な藩 | |
薩摩・長州・肥前・土佐・広島などの西南地方の藩や、水戸・越前の各藩を指す。 | |
* | 石高 |
江戸時代、米穀の収穫高を基準とした土地丈量法 | |
【高】ともいう。1582年、「豊臣秀吉」による山城の検地以降の、【太閤検地】の過程で確立。近世幕藩体制の基礎となり、1873(明治6)年の【地租改正】まで存続した。田・畑・屋敷の面積に「石盛」と呼ばれる標準収穫率を乗じて算出し、年貢・諸役はその石高を基準にして徴収された。 | |
* | 詔勅 |
国の主権者としての天皇の命令を伝える公文書 | |
公式令に定められたものでは詔書がいちばん重く、大事件に際して出され、勅旨は平常のこと、勅符は緊急のもの。【大日本帝国憲法】では[詔書−勅語−勅書]の3種があり、【日本国憲法】では詔書のみになった。 | |
* | 郷士 |
江戸時代、郷村に居住した武士の総称 | |
辺境の外様大名領に多い。家臣を土着させた者、旧家土豪で名字帯刀を許された者、献金などで士分に取り立てられた者などがある。土佐藩の「百人衆」、薩摩藩の「外城衆」、肥後熊本藩の「一領一匹」が有名。1872(明治5)年、【太政官布告】により士族となる。 | |
* | 明治維新 |
19世紀後半、幕藩体制がその内部矛盾と欧米資本主義の外圧によって崩壊し、 日本資本主義と近代天皇制国家形成の起点となった政治的・経済的・社会的変革 | |
明治維新の始期については、国内的条件を第1義として、1840年代の天保期をあてるものと、国際的条件を重視して、【ペリー来航】の時期をあてるものとがある。 終期については、 @1871年の【廃藩置県】〜1873年の【地租改正】に至る封建的領主制の崩壊 A1877年の【西南戦争】による封建的勢力の敗退 B1884年の【秩父事件(資本主義的な階級的対立の出発点として)】 C1889年の【大日本帝国憲法】の成立から、翌年の【帝国議会】の開設に至る 天皇制近代国家の成立まで とする諸説があり、@ACが有力である。 この変革は、農民や都市貧民の世直し一揆や外圧の危機の中で、下級武士(特に西南雄藩の)豪農層が結びついて推進したものと考えられるが、これを【絶対主義】の成立と見るか、【ブルジョア革命】と見るかの論争がある。それは日本資本主義の構造や性格、【第二次世界大戦】までの日本近代史の意義を考える上でも大きな分岐点となっている。 |