清川口の戦い (清川戦争)
1868年4月、「新政府軍」と「庄内藩」との間で行われた東北最初の戦闘
史跡 御殿林
 幕末の志士、清川八郎の誕生の地として知られるここ清川には、荘内戊辰戦争清川口古戦場となった御殿林がある。
 慶応4年(1868年)総督府(奥羽鎮撫総督九条道孝)は、荘内追討を布令した。副総督 沢為量・参謀大山格之助(薩)のひきいる政府軍は、4月14日岩沼を発し、笹谷峠 - 山形 - 天童 - 尾花沢 - 新庄 - 本合海を経て、24日未明土湯に上陸し、早朝清川腹巻岩を占拠した。ただちに政府軍は、腹巻岩山上より清川村に対し、攻撃を開始した。これに対し荘内軍は、かねてからこの事あるを察知し、布陣しており松平甚三郎を総大将に、水野弥兵衛を士(さむらい)大将として、御殿林を中心に、ただちに応戦した。 しかし、政府軍の急襲により苦戦となり、婦女子は狩川に避難したが、午後には援軍が到着し、奇襲戦法なども功を奏し、戦況は逆転した。 午後3時頃、荘内軍は腹巻岩の要地を奪還し、政府軍を撃退した。激戦の結果、荘内軍戦死者13名、負傷者18名、政府軍戦死者12名、負傷者50名余といわれる。
 明治26年(1893年)8月9日俳人正岡子規は清川に立寄り、御殿林が戊辰戦争の戦跡と聞いて次の句を詠む。
蜩(ひぐらし)の二十五年も昔かな。

御殿林
譜代の名門、酒井庄内(鶴岡)藩は、以前領内に移管されていた旧幕領から、年貢米を自領に運び込んだところ、「東北地方の旧幕領は全て接収する」と宣言していた奥羽鎮撫総督府にこの件をとがめられ、征討の対象となった。庄内藩は「例え朝廷領となろうが、前年度の収穫は会計上も当藩の物となる」と主張したが聞き入れられず、会津に続いて征討軍が向けられた。
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幕末期、京都の会津藩と同様に江戸の市中取締りを行い、幕府寄りのスタンスを取っていた庄内藩は、この情勢をあらかじめ予期。鶴ヶ岡城に主力、国境防衛部隊として東西南北に藩正規兵・農兵を1月の段階で配備していた。元々関所があった東境防衛口の清川は、この御殿林を本営とし、松平甚三郎主将のもと兵士4〜500人が集結していた。
腹巻岩(山)
手前は立谷沢川 御殿林の方角から見た腹巻岩
奥羽鎮撫総督府は、接収した幕領から年貢米を運び去った出羽庄内藩を、叛意ありとして朝敵指定。参謀「大山格之助(のちの綱吉)」以下薩摩1小隊、「桂太郎(のちの首相)」隊長以下長州1中隊で主力編成された「討庄軍」(約2〜300名)は、「沢為量」副総督を主将として4月14日、仙台領岩沼から庄内討伐に向けて出羽へ移動を開始した。
各地で羽州諸藩の兵力を徴集し、天童藩中老「吉田大八」を先導役に命じた討庄軍は、新庄に駐留、討庄軍前線基地とした。薩長・新庄兵を主力とした討庄軍は最上川を下り、慶応4年4月24日早朝、ついに腹巻岩山上に姿を現した。

戦場と布陣
吹浦口防衛戦、のちの天童戦争・最上掃蕩作戦と共に「春の御陣」と呼ばれる戊辰庄内戦争【清川口の戦い】は、高台に位置した討庄軍の新式銃、砲撃が猛烈を極め、庄内軍は大いに苦戦した。しかし鶴岡中央軍の出動、さらに庄内支藩の松山藩兵が増援として清川に到着すると、戦局は一気に逆転。討庄軍は最上川沿いに新庄への撤退を余儀なくされた。
この戦いは天童戦争の原因ともなった。
松山軍の布陣した高台 合流地点から見た最上川上流、
新庄の方角。手前が立谷沢川。



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