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前篇 其の3 A
◆其の三 烈公の決断
A
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逢魔が時。 陽も陰り、夕暮れの会津若松城にけたたましい馬の蹄の音が響く。
先ほどの婚礼のシーンとはうって変わり、何かを暗示するような重苦しい雰囲気だ。
「まずは良かった」
(頼母)
式も無事終了し、談笑しながら帰宅の徒につく二人。 しかし、騒々しい蹄の音におもわず振り返る。
「止まれーい! 筆頭家老西郷頼母じゃ! 江戸からの急使と見た! どうした!」
(頼母)
名を名乗り馬を制止させる頼母。 頼母と分かった急使は即座に下馬し、上申。
「江戸表よりの御使いに御座います!」
(急使)
「何事じゃ、早馬とは穏やかでないが」
(丘隅)
只ならぬ雰囲気を察知し、厳しい表情で問い詰める丘隅。
「昨日、
(略)
吾が殿に、京都守護職の上意が下った由に御座いますッ」
(急使)
「ん?」
と、顔を見合わせ、不思議な表情を見せる丘隅と頼母。
「京都‥守護職ゥ?」
(頼母)
「頼母殿。 殿に京都守護職の御下命があったとは、真で御座るか?」
「大変な事になり申した‥」
(頼母)
開く口も重く、頼母自身も動揺を隠せないようだ。
「如何なさるお積もりじゃ、京の治安を守るなら所司代が在るはず。
京都守護職などと言うお役目は聞いた事もない!」
「おそらく‥ 勤皇派と称する不逞浪士の行動が目に余り、
将軍家も業を煮やして、新しく設けた役職で御座ろう」
(頼母)
「将軍家」とは、ご存知「徳川家康」を開祖とする江戸徳川幕府を指す。
幕藩体制により250年もの間、全国を支配してきた当時の日本代表政府だ。
「田中土佐(たなか とさ)」
「して、その規模は、一体藩士を何人連れて行くのか、陣屋はどうなるのかッ」
(土佐)
すごい勢いで部屋に入り、マシンガントークの田中土佐。 土佐も代々家老職の家柄の出。
「頼母殿、この話、お断り申し上げる訳には参るまいか」
(土佐)
「それがしも今、その事を考えていたので御座る」
(頼母)
同じ考えだという頼母の言葉に、ホッと安堵の土佐。
「先般の神奈川警備でさえ、莫大な御物入りで御座った。
この上、都の警備となれば、どれほど金が掛かるやら」
(土佐)
「いや、金で済む事ならまだしも‥ 会津藩が反徳川勢力の矢面に立たされ、
吾が殿が、大老井伊殿の二の舞になっては‥」
(頼母)
「ならば頼母殿、一刻も早く江戸へ参りッ、殿に守護職拝命をご辞退戴かねば!」
(土佐)
土佐は経営面から、頼母は社会情勢面からと心配の出所は違うが、両者共に会津のためへと帰結する。
腹も決まり、江戸に発つ決意を見せ深く頷く頼母。
「雪子も新婚早々京都行くような事になるのでしょうか」
(とめ子)
「頼母殿がな、あんべ良く説得してくれればいいがの」
(丘隅)
頼母に一縷の望みを託す。
その頼母らは確認も含め、会津藩江戸上屋敷へ。 辺りは暗い。
夜を徹して走ってきたのだろう。 ちなみに東北道を使っても車で4時間は固い。
「国家老田中土佐!開門!」
「筆頭家老西郷頼母じゃ! 殿に御目通り仕る! 開門!」
名を名乗るのってかっけー。
「松平容保(まつだいら かたもり)」
「有難く拝命仕る」
(容保)
会津藩江戸上屋敷にて、藩主・容保が遂に登場。
会津より馬を飛ばした頼母と土佐に対し、藩の重大事を決定事項として事も無げにサラッと言い放つ。
財政逼迫の窮状を知りつつも、思案に思案を重ねた結果だとのこと。 中間管理職のつらいところだ。
「これは、徳川家の存亡に関わる大事なのじゃ」
(容保)
家臣たちの反論を抑えこもうと、この時点ではまだ極論に近い大義名分を語り、
「申したき事も数々あろうが、得心してくれ」と、いきなりクロージングに入る容保。
「お止めくだされ殿!
(中略)
頼母は反対で御座る。 断固反対致しまする!」
(頼母)
藩の窮状が解っているなら、このような役目引き受けるはずがないと、毅然とした態度で容保に臨む頼母に対し、
「やらねばならぬッ、誰かがやらねばならぬのじゃッ」
(容保)と、意見は真っ二つに割れる。
「かと申して、何も殿がお引き受けにならなくとも!」
(土佐)
「誰もがそのような事を申しておったら徳川はどうなるのじゃ! 吾が会津が
一身を投げ打つ覚悟で徳川の先鋒とならねば、誰がこの危機を救ってくれようか!」
(容保)
「為りませぬ! それではまるで、薪を背負うて火を救うが如きもの!
殿は、会津藩を潰すお積もりか!」
(頼母)
覚悟を語った容保に対し、声を荒げて反論する頼母。 随分と挑発的な言い方だし、最後の一言も余計。
「黙れ頼母! その方、余を養子と侮るか!」
(容保)
完全に火が点いた容保。 これが烈公たる所以。
「誰もそのような事は‥!」
(頼母)
「ならば訊ねるが、十六年前、余が会津松平家の養子になった時、その方の父は何と申したぞ!」
「初代藩主・保科正之
(ほしな まさゆき)
公の"家きん
(家訓)
"を持ち出して、余に申し聞かせたではないか!
"大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべし"
と。 余は子供心にもその言葉、徳川家在っての会津と心得たッ」
(容保)
いかに頼母とは言え、これを持ち出されては論破は困難。
「余は京都守護職を拝命するッ。辞退など出来よう筈が無い!」
(容保)
話は終止平行線で、容保は上記捨てゼリフを吐いて席を立ち上がる。
「殿!今一度、今一度お考えを!」
(頼母)
「下がれ! 目通りならん!下がれ下がれ!」
(容保)
「いいや下がれませぬ。 お考えを変えて戴くまでは、下がれませぬ!何卒、何卒ォ!」
(頼母)
脇目も振らず、一心不乱に食い下がる頼母に対して容保は。
「その方の顔など見とうもない!呼び出しがあるまで、会津に帰っていよ!」
(容保)
顔も見たくないと一蹴。 事実上の謹慎命令に近い。
「殿ッ!」
(頼母)
「頼母殿‥"家きん"じゃ。 頼母殿、藩祖の"家きん"は蔑ろ
(ないがしろ)
に出来ぬ。
殿は"家きん"と共に生き、"家きん"と共にお命を捨てるお積もりなのじゃ。 これ以上我らに反対出来ようぞ」
(土佐)
「生真面目過ぎる! 余りにも、生真面目過ぎる‥」
(頼母)
徳川宗家の威光を盾に、話を押し切った容保。 がっくりと肩を落とす西郷頼母。
会津藩主・松平容保がこれほどまでにこだわった会津の"家きん"とは、
藩祖・保科正之が起草した、言わば、会津の憲法とも言うべきものである。
その第一条。つまり、藩主たる者が徳川家に対して二心を抱くようならば、
それはもはや我が子孫では無く、従って家臣一同その様な藩主に従ってはならない、と言うのである。
十二歳で、美濃、高須城主・松平家から、会津松平家の養子となった容保の双肩には、
家老たちから叩き込まれた、この"家きん"が、ズシリと重く圧し掛かっていたに違いなかった。
会津の藩祖・保科正之は、3代将軍「徳川家光」の腹違いの弟、つまり2代将軍「徳川秀忠」の息子であり、開祖・家康の孫となる。
つまり会津藩は武家の棟梁である【徳川家】の親戚縁者である【親藩大名】にあたり、その辺の大名とは違って格式がある。
受任の背景には「その辺の藩には任せられない」といった意識があったか、もしくは逆に血縁関係で身動きできなかったか。
あ、両方ですか。
「西郷様、殿は今宵、下屋敷に御成りとの事に御座います」
(藩士)
「ん?」
(頼母)
「お待ちになられても、殿はお戻りにはなられませぬ」
「作用か。 はっは‥随分と嫌われてしもうたの」
決定はもう覆りそうにない。 頼母は「お役を退いて、一日も早い殿のお帰りをお待ち申し上げる」と
容保への伝言を言い残し、会津へと戻る。
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